Purple Harp

創作や日常に関する雑記

苦手と歩み寄れたら世界が広がった という話

以前、『サリエリのコンテンツ化に対して思うところ』という記事を書き、
色々な方に見て頂きました。

その記事の中で私は、「サリエリをコンテンツ化したソシャゲが地雷となった」と書きました。最近、その苦手意識を払拭したとは言わないまでも、随分と緩和することができたので、そのことについて書こうと思います。

 

まず、以前の記事で2次創作をしてる方々に向かって「キャラをコネコネしてる」だとか、「史実をソシャゲにトッピングしてる」とか、散々に書いてしまって申し訳ございませんでした。失礼なことでしたし、私の見苦しい様子を見せてしまい、すみませんでした。

以前の自分に「コラ」と言いたい気持ちはありますが、該当記事は消さずにそのまま残しておこうと思います。何故なら、大メディアと自分の適切な距離を探るにあたり、「まず拒否反応が生じて反発を示す」という過程は避けられなかっただろうと考えているからです。それを無かったことにすれば、不自然になると思われるからです。

 

苦手意識が緩和したきっかけは、ミュージカルの「MOZART!」を鑑賞したことだったと思います。ジーンズ生地のコートに首元の見えるシャツという、現代風の出で立ちで演出される青年モーツァルト。私はこのミュージカルを見る以前、「解釈違いが甚だしかったらどうしよう」と考えビクビクしていました。鑑賞してみたらそんなのは全くの杞憂で、素晴らしい劇だったと思います。感動しました。

モーツァルトの演出に、史実との矛盾がないこと。独創的であること。とても深く多様に描いていること。けれど、「モーツァルトをもっと深掘りしたらあと100時間あっても足りないだろうな」と思ったことで、モーツァルトという存在の可能性を感じました。

自分の創作もまた、モーツァルトという存在が許している多様性の一角に住まわせてもらってるんだ。そう感じたら、荒波のごとく感じられた大メディアも、多様性を生み出す一つのプレーヤーに過ぎない、と捉えられるようになりました。

 

以前の記事にも書きましたが、サリエリという作曲家は、生前の風聞・プーシキンの劇・映画…と、大メディアにぶった切られ続け、毒殺説の犯人というコンテンツに成り下がることを余儀なくされてきた不運の人、という側面があると思います。

私は、某メディアがその新しい切り口になることが怖かった。1つの巨大なうねりによって強制的に1つのイメージに固定されるのではないかと。けど、多様になるというのはその不運を打開するためにいいことですよね。それに、そのメディアの愛好者たちは巨大なうねりではなく、1人1人がいて、きっかけは何にせよ「史実のサリエリという人物が気になる」と声を上げる人たちがいて、書籍復刻の力となって、キャラクターと人物とを好きである人たちがいる。そんな当たり前のことが見えてきて、気づけば苦手感は相当に薄まっていました。

 

それに、サリエリ愛好家が100人から100万人になったところで、コンテンツとして消費され尽くされる、なんていうことにはきっとならないのだと思います。何百時間かけてもモーツァルトの人生を表現しきれないのと同じで。

 

今では、以前の苦手意識、地雷感を克服できて本当に良かったと思っています。サリエリのことについてお話できる人と繋がれて、楽しく過ごしています。まだ、ガンガン行こうぜ的な勢いには慣れないので、距離を調整しながらですが、交流を広げていけたら嬉しいです。

 

おわり